「山のあなたの空遠く
「幸」住むと人のいう
噫、われひとと尋めゆきて
涙さしぐみかえりきぬ
山のあなたになお遠く
「幸」住むと人のいう …」
カール・ブッセの詩は格調高いが、
こちとら、演芸好きだ、べらぼーめ!
気が短けーんだ。
ここまでしか知らないやい。
…いやいや、無理やり江戸弁?使っても格好わるい。
所詮は権助、田舎もん。
てなわけで、三遊亭歌奴(現圓歌)師匠の「授業中」
今、「山のアナアナ」と言って
何人が「そうそう」と言うか、
わっかるかな~、わっかんねえだろうな~。
いや、これもわかんないだろう。
とかく流行語は足が速い。
本当は、ただ「山のアナアナ…」といくわけじゃない。
上述のカールブッセの詩の朗読を当てられたドモリの中沢少年。
クラスメートの
「いいか?中沢、先生のお許しが出た。しみじみどもれ。」
の言葉で、
「や、や、、やまー、やまー、やまー、山のアナー、アナーや、山のアナーアナー、アナ、あなた、あなた?もう寝ましょう」
とやるわけだ。
どうして「もう寝ましょう」はどもんないんだ?と教師(これがまた物凄い訛り)に突っ込まれる。(「突っ込み」ってのは漫才の用語だけどね)
次に指名されるのが「3番、広沢虎三」
こちらは朗々とうなる。
「山のあ~な~た~の~、そ~ら~遠く(ハイ)。さいわい住むと人の言う、
ああ、われひととと~めゆきて(ハア)
山のあ~な~た~の~~おおおお、そ~ら~とおくぅ~」
と次郎長伝もかくやの名調子、ヨオ!
おっとノリ過ぎか。
これと「しんお~くぼ~(新大久保)!」のフレーズで
歌奴サン、お茶の間の人気者になった。
本人、今は高座でも
「いまさら『山のアナ』じゃねーだろ!飽きちゃったよ!」と笑わせる。
でも、また聞きたいなあ。
もう、誰もやれないもの。
その頃のスターは「爆笑王」林家三平
どこのテレビにも出ていたアノ人。
「ドーモすいません」って言ったらみんな同じポーズをできるはず。
今でこそ、アノ人は偉かった凄かったとみんなで言うけど、
テレビで見ていた人はほとんど「クダらない」「馬鹿馬鹿しい」と言いながら笑っていました。
昭和30年代~40年代当時でさえ、そうでした。
ましてや、亡くなる晩年においておや、です。
アノ人が本当に凄かったのは、
大病をして復帰して上がった高座で、
昔と全く同じ芸を見せたって事。
昔と同じ芸と言っても、普通の芸人とは違う。
三平さんは、昔と同じ小噺をつなげるギャグをやったんですよね。
これが凄い!
その時の高座はテレビで流れたはずです。
「どうもすいません」
「もう大変なんすから」
「好きです、好きです、よし子さ~ん、ってご存知です?お嬢ちゃん!」
「アタシがこうやったら笑って下さい」
「ホント、身体だけは大事にして下さい」
「こっちから向こうのお客さん、笑いが少ないすよ。お願いすから」
不思議なもんで
上のような言葉(フレーズ)を適当につなげると何となく三平さんの落語に聞こえちゃう。
師匠の高座が目の前に浮かんでしまう。
正月になったらこのギャグの中に
「棚から物がおっこって『元旦』(ガッタン)」といった小噺?が必ず入る。
他には電気サルマタの話もあったっけ?
三平師匠の噺を聴いているお客さんみんながそのフレーズも小噺のオチも知っている。
なのに聴いてて笑ってる。
ボクの年代以上の人は多分みんな三平さんのギャグを覚えてる。
くだらない、くだらないと言いながら、
みんな三平さんが好きだったんですよね。
「本当にクダらない」
寄席で見たかったなあ。
S55年死去。
ボクが覚えている三平師匠の噺は「源平盛衰記」
ところで、
三平師匠のしゃべり方は、息継ぎも、間の取り方も独特で、
これは今の正蔵師匠も継いではいない。こん平師匠でもない。
たとえが適当じゃないかもしれませんが、
あえて言えば、
三平さんのしゃべりは、声も含めて今ならキャイーンの「ウド鈴木」に近いです。
どーです?似てませんか?
これは本当で、テレビの演芸こそ
ボクの「演芸初めて物語」
だから、ボクが初めて知った落語家は(林家)三平、(月の家)圓鏡(=後圓蔵)、(三遊亭)歌奴(=後圓歌)といった爆笑の系譜だったナア。
「好きです、好きです、好きです~。よし子さ~ん」
「もう、大変なんスから」
「どーも、すいません」
落語では、1回も笑った記憶がないのですが、これらのフレーズは覚えてるんですよね。
不思議です。
もちろん三平さんのおかみさんは香葉子さんで「よしこ」さんではありません。
圓鏡さんなら「よいしょっと」
歌奴さんなら「山のアナアナ…」
考えてみれば、落語家のフレーズは今のキャッチコピーみたいなもんなんですよね。
今の落語家で、ここまで現代にコミットできる人が何人いるのか?
いや、一人でもいるのか?
欲目で見ても、よくわかんない。
小朝、正蔵、花録、志の輔、志らく、楽太郎…
うーん、どうなんだろ?
とにかく、ボクの子供時代は、三平、圓鏡の日々だったんです。
談志、志ん朝、小三治、柳朝、大師匠の圓生、小さん、彦六、と行くのはまだまだ先の事です。
おおきなことを言うよぷですが、日本では…
もう、数えるほどしかございません。
いわゆる落語の定席の寄席は4つしかありません。
鈴本演芸場(上野)
浅草演芸ホール(浅草)
新宿末廣亭(新宿)
池袋演芸場(池袋)
この4つです。
他にも寄席と言われる場所としては
国立演芸場(平河町)
浅草木馬亭(浅草)
本牧亭(池之端)
があるそうですが、木馬亭は浪曲、本牧亭は講談の寄席になるそうです。
名古屋の大須演芸場、大阪のなんばグランド花月や角座はよく知りません。
さて、寄席は元々こんなものだったかと言えば、
昔は多かったのです。
いわゆる大衆の娯楽が少なかった頃、人々は映画館に行き、寄席に集まりました。
テレビやラジオの普及にともない、人気が無くなっていったのは映画も寄席演芸も同じです。
ただ、映画が、紆余曲折を経て、いい才能にも恵まれたためなのか、
はたまた、テレビと良好な関係を築くことにより再び人気を獲得してきているのに、
寄席は、ますます、一般大衆から離れてしまっています。
そういう自分も、地方出身者のため
ボクが寄席芸人の演芸を見たのは、まずテレビ。
続けてラジオ、そしてテープといった具合で、
ライブ、つまり寄席に足を運んだのは、就職で上京してからだからかなり大人になってから。
それでも、23年前の事だから、もう寄席そのものが遠い記憶でしかない。
そして寄席は、もう趣味人やマニアの行くところでしかない。
寄席芸が大好きでした。
落語も、漫才も、太神楽も大好きでした。
今でも大好きです。
そんな寄席と寄席芸人、そしてその芸を頭の中から引き出して、
語ってみたい。
思い出してみたい。
だから大した内容ではないんです。
演芸が元気だった頃、その演芸の海の中を溺れるように漂った、
自分のことを語る場所なんです。
もし、ついでで見てくだされば、幸いかと存じます。
では、はじまりはじまり…