根岸の里のわび住い…
落語界で「根岸」と言えば故林家三平さんを指します。
(いずれ、これも「先代の…」という枕詞が付くんだね。時代の流れを感じますワ。)
ま、落語の中で「根岸」とくると、店を跡取りに任せたご隠居さんか、
店の大旦那の妾(愛人)がいるところというのが相場ですな。
今の鶯谷駅のあたりになる根岸は、下町の別荘地帯だったそうです。
妾さんは黒板塀に囲まれた家にばあやと狆(ちん)といっしょに住んでいるが、ご隠居さんは身の回りの世話をする小僧ひとりを付けて住んでいる。
小僧とくればなぜか定吉。
定吉と言えば毎日香…いや、そんな噺ではございません。
えー、息子に身代を譲り、丁稚小僧の定吉を連れて長屋の付いた一軒家に隠居した旦那。
毎日退屈なんでぶらぶらしていたら、
周りが琴やら盆栽やら生花やら風流な方ばかりなので、自分も何か風流なことをやりたくなった。
丁度隠居所には茶道具があったので茶の湯をやろうと決めた。
ところが、茶の湯を習えばいいものを、意地っ張りな隠居さんは「茶の湯を知らない」と言えない。
定吉の前で口からでまかせに「忘れた」と言ったものの、
「どこを忘れましたか?」と問われて困る。
茶碗に何か青い粉(抹茶)を入れてジャブジャブかき混ぜてブクブク泡が出るものとしかわからない。
そこで記憶をたどるふりをして懸命に考える。
わかるわけがない。知らないんだから。
定吉が青黄粉が青いと言えば「そうだった。青黄粉だ」と…おいおい。
定吉、言われたとおり青黄粉を買って帰ってくるが、
いくらかき回しても泡なんか出るはずがない。
何を入れれば泡立つのか?
定吉「椋の皮なんかどうでしょう?」
ご隠居「そうだ定吉、椋の皮と教わった。」
金馬さんの噺では、この小僧と隠居さんのやりとりが面白い。
椋の皮とは洗剤として乾物屋で売っていたくらいだから、
かき混ぜたら泡は出るだろうね。
水でも泡がブクブク出るんだから。
泡をふうふう飛ばしてからでないと飲む事ができない。
その上、渋くてまずくて飲めるもんじゃない。
青黄粉だけだったら、まずくてもおなかは壊さなかっただろうけど、
これを2人で風流だ風流だって飲んでたんだから、
おなかが下って仕方がない。
「定吉~、おむつは乾いたか?」と情けなく声を出す隠居さん。
隠居は夜通し16度もトイレに通ったとこぼす。
定吉は一回だ。
さすが若いなと感心すると、
「一回入ったきり出られなかった。」(笑)
「しかし、こう、下っ腹に力が入らない、体がふわ~っとして…風流だな。」
この「風流だな」という言葉がなんともおかしい。
この後、孫店の豆腐屋、手習いの師匠、頭を呼びつけ、
強制的に茶の湯を強請する。
これはマズイ。しかし、口直しにかぶりついた羊羹は旨い。
隠居は近所の人まで茶の湯でもてなした。茶は不味いが羊羹は美味いぞと、そのうち羊羹泥棒が始まった。
これえはたまらないと、今度は菓子を手作りする。
まず、皮をむいたサツマイモを蒸かしてスリコギであたり、
蜜を混ぜて、型には黒い灯し油を付けて型抜きし、
「利休饅頭」して客に出した。
つやがあって外見は旨そうだが、これはマズイ!
客は激減する。
そんなところに飛んで火に入る夏の虫…
昔のお客がやって来て「何も知らないので茶を教えてほしい」と所望があった。
「何も知らない?ではどうぞ」と、いつもより多めの青黄粉と椋の皮を入れて出した。
お客さん知らずに『お茶?』を口に含むと、飲めるものではない。
あわてて、『利休饅頭』をふたっつも口に入れたがこれがまたマズイ。
饅頭を袂に入れたが、やがて黒い油がにじみ出してくる。
我慢が出来ずに「お手洗いを拝借したい」と言って席を立って逃げ出した。
このベタベタしたものを捨てるところは無いか?
探したてはみたが、庭は掃き清められて捨てられない。
ふと前を見ると垣根の向こうに畑があった。
ここなら良いだろうと饅頭を投げると、それが畑仕事をしているお百姓さんの顔に当たった。
お百姓さん怒ってそれを取り上げると…「また、茶の湯やってるだな」
これがオチ。みんな畑に捨てていたというわけ。
この噺、たぶん先代の小さん師匠、もちろん、テープで金馬さん、後はラジオで文朝師匠の噺も聴きました。
軽く、ある種の爽やかさを感じさせる芸風の人の方が面白い。
定吉が生意気に聞こえてもいけないし、ご隠居の知ったかぶりも度を越すと嫌味になる。感情移入がしにくくなる。
その点で金馬さんの芸は平易で最高である。
ラジオで聴いた文朝さんの定吉は金馬さんのそれよりより可愛かった。
今「茶の湯」の名手は誰になるだろう?
小朝さんかなあ?
頑固で可愛いご隠居、少し生意気でこまっしゃくれた小僧の定吉、3軒長屋の気のいい住人、そしてオチに登場するお百姓。
春風のような芸風の噺家さんがこの噺をやれば、
嫌味もなくクスリと笑えるかなあと思うしだいです。
落語界で「根岸」と言えば故林家三平さんを指します。
(いずれ、これも「先代の…」という枕詞が付くんだね。時代の流れを感じますワ。)
ま、落語の中で「根岸」とくると、店を跡取りに任せたご隠居さんか、
店の大旦那の妾(愛人)がいるところというのが相場ですな。
今の鶯谷駅のあたりになる根岸は、下町の別荘地帯だったそうです。
妾さんは黒板塀に囲まれた家にばあやと狆(ちん)といっしょに住んでいるが、ご隠居さんは身の回りの世話をする小僧ひとりを付けて住んでいる。
小僧とくればなぜか定吉。
定吉と言えば毎日香…いや、そんな噺ではございません。
えー、息子に身代を譲り、丁稚小僧の定吉を連れて長屋の付いた一軒家に隠居した旦那。
毎日退屈なんでぶらぶらしていたら、
周りが琴やら盆栽やら生花やら風流な方ばかりなので、自分も何か風流なことをやりたくなった。
丁度隠居所には茶道具があったので茶の湯をやろうと決めた。
ところが、茶の湯を習えばいいものを、意地っ張りな隠居さんは「茶の湯を知らない」と言えない。
定吉の前で口からでまかせに「忘れた」と言ったものの、
「どこを忘れましたか?」と問われて困る。
茶碗に何か青い粉(抹茶)を入れてジャブジャブかき混ぜてブクブク泡が出るものとしかわからない。
そこで記憶をたどるふりをして懸命に考える。
わかるわけがない。知らないんだから。
定吉が青黄粉が青いと言えば「そうだった。青黄粉だ」と…おいおい。
定吉、言われたとおり青黄粉を買って帰ってくるが、
いくらかき回しても泡なんか出るはずがない。
何を入れれば泡立つのか?
定吉「椋の皮なんかどうでしょう?」
ご隠居「そうだ定吉、椋の皮と教わった。」
金馬さんの噺では、この小僧と隠居さんのやりとりが面白い。
椋の皮とは洗剤として乾物屋で売っていたくらいだから、
かき混ぜたら泡は出るだろうね。
水でも泡がブクブク出るんだから。
泡をふうふう飛ばしてからでないと飲む事ができない。
その上、渋くてまずくて飲めるもんじゃない。
青黄粉だけだったら、まずくてもおなかは壊さなかっただろうけど、
これを2人で風流だ風流だって飲んでたんだから、
おなかが下って仕方がない。
「定吉~、おむつは乾いたか?」と情けなく声を出す隠居さん。
隠居は夜通し16度もトイレに通ったとこぼす。
定吉は一回だ。
さすが若いなと感心すると、
「一回入ったきり出られなかった。」(笑)
「しかし、こう、下っ腹に力が入らない、体がふわ~っとして…風流だな。」
この「風流だな」という言葉がなんともおかしい。
この後、孫店の豆腐屋、手習いの師匠、頭を呼びつけ、
強制的に茶の湯を強請する。
これはマズイ。しかし、口直しにかぶりついた羊羹は旨い。
隠居は近所の人まで茶の湯でもてなした。茶は不味いが羊羹は美味いぞと、そのうち羊羹泥棒が始まった。
これえはたまらないと、今度は菓子を手作りする。
まず、皮をむいたサツマイモを蒸かしてスリコギであたり、
蜜を混ぜて、型には黒い灯し油を付けて型抜きし、
「利休饅頭」して客に出した。
つやがあって外見は旨そうだが、これはマズイ!
客は激減する。
そんなところに飛んで火に入る夏の虫…
昔のお客がやって来て「何も知らないので茶を教えてほしい」と所望があった。
「何も知らない?ではどうぞ」と、いつもより多めの青黄粉と椋の皮を入れて出した。
お客さん知らずに『お茶?』を口に含むと、飲めるものではない。
あわてて、『利休饅頭』をふたっつも口に入れたがこれがまたマズイ。
饅頭を袂に入れたが、やがて黒い油がにじみ出してくる。
我慢が出来ずに「お手洗いを拝借したい」と言って席を立って逃げ出した。
このベタベタしたものを捨てるところは無いか?
探したてはみたが、庭は掃き清められて捨てられない。
ふと前を見ると垣根の向こうに畑があった。
ここなら良いだろうと饅頭を投げると、それが畑仕事をしているお百姓さんの顔に当たった。
お百姓さん怒ってそれを取り上げると…「また、茶の湯やってるだな」
これがオチ。みんな畑に捨てていたというわけ。
この噺、たぶん先代の小さん師匠、もちろん、テープで金馬さん、後はラジオで文朝師匠の噺も聴きました。
軽く、ある種の爽やかさを感じさせる芸風の人の方が面白い。
定吉が生意気に聞こえてもいけないし、ご隠居の知ったかぶりも度を越すと嫌味になる。感情移入がしにくくなる。
その点で金馬さんの芸は平易で最高である。
ラジオで聴いた文朝さんの定吉は金馬さんのそれよりより可愛かった。
今「茶の湯」の名手は誰になるだろう?
小朝さんかなあ?
頑固で可愛いご隠居、少し生意気でこまっしゃくれた小僧の定吉、3軒長屋の気のいい住人、そしてオチに登場するお百姓。
春風のような芸風の噺家さんがこの噺をやれば、
嫌味もなくクスリと笑えるかなあと思うしだいです。
PR
トラックバック
トラックバックURL: