「柳亭痴楽は良い男、鶴田浩二や錦之助、それよりもっといい男…。」
これは、柳亭痴楽師匠(先代)の「綴り方教室」のマクラです。
「いい男」って自分で言うくらいですから、想像通りの容貌で、
別名が「破壊された顔の持ち主」っていうからブッチャケぶりも大したものです。
冒頭の「柳亭痴楽はいいおとこ…」の後で、
「山手線の駅名」や「東京の川にかかる橋」を織り込んだ作文を独特のテンポで話すわけです。
これは当時の友人に、「爆笑王」と呼ばれた三遊亭歌笑がいて、その「純情詩集」という作品にヒントを得たのか、それを引き継いだものとの事、痴楽の綴り方教室は大ヒットとなった。
「彼女は奇麗なうぐいす芸者(鶯谷)、
にっぽり(日暮里)笑ったそのえくぼ、
田畑(田端)を売っても命懸け。
我が胸の内、こまごまと(駒込)、
愛のすがもへ(巣鴨)伝えたい。
おおつかな(大塚)ビックリ、故郷を訪ね、
彼女に会いに行けぶくろ(池袋)、
行けば男がめじろ押し(目白)。
たかたの婆や(高田馬場)
新大久保のおじさん達の意見でも、
しんじゅく(新宿)聞いてはいられない。
夜よぎ(代々木)なったら家を出て、
腹じゅく(原宿)減ったと、渋や顔(渋谷)。
彼女に会えればエビス顔(恵比寿)。
親父が生きて目黒い内は(目黒)
私もいくらか豪胆だ(五反田)、
おお先(大崎)真っ暗恋の鳥、彼女に贈るプレゼント、
どんなしながわ(品川)良いのやら、
魂ちいも(田町)驚くような、
色よい返事をはま待つちょう(浜松町)、
そんな事ばかりが心ばしで(新橋)、
誰に悩みを言うらくちょう(有楽町)、
思った私が素っ頓狂(東京)。
何だかんだ(神田)の行き違い、
彼女はとうにあきはばら(秋葉原)、
ホントにおかち(御徒町)な事ばかり。
やまては(山手)は消えゆく恋でした」
これ、テープで聴いたんだけど、
…面白くないんだ。これが。
師匠の名調子は「ふ~ん」とうなずくものはあっても、
「爆笑」とまではいかない。
時代が作ったもしくは時代が求めた芸人っているんですよね。
もちろん、痴楽師匠も歌笑師匠も、落語ができなかったわけじゃない。
大衆演芸たるもの、
常に大衆のためにあるわけで、
時代や観客の方を向いてなければ何の芸人ゾという心意気、
彼ら落語家の矜持があったものかと思われます。
芸人としては後世に残れなかった痴楽師匠。
でも「綴り方」は今でも残る作品です。
そういう意味では「作品派」とも言える人かもね。
でも、売れてる漫才のパワーは落語をはるかに上回る。
漫才と言えば、いまやM-1で世間的な注目を浴びるジャンルになった。
これは花王名人劇場で澤田隆治さんが、「ザ・マンザイ」を始めてツービートやB&B、ざ・ぼんちが売れてからかな?と言うのがボクの感想。
彼らは番組のおかげで大スターになった。
ただ、最後にその人気を根こそぎさらっていったのは、結局マンザイブーム前から売れていた「やすきよ」こと横山やすし、西川きよしだったのはご存知の通り。
ビートたけしや島田紳介は有名人になって生き残ったけど、
マンザイという作品を残しているわけじゃない。それでいいんだと彼らも思っていた節もあるし。
やすきよの「教習所」は最高だった。きよしがボケてやすしがツッ込みに回ったこの作品。
教習所の生徒役のきよしが教官役のやすしを相手に危険運転をしてギャグにするという、
立場が反対ならしゃれにならないこの話。
パニックになって車を停められないきよしをやすしが懸命に停めようとする場面。
「あぶないあぶない(やすし)…(2人で座った状態で飛び跳ね)バァ~ン!…(きよし、後ろを振り返って)3人、寝てますね?(やすし)跳ねとんのや!(このセリフ「死んでるやないかい!」だったかな?)
文章にすると全く面白くないが、これをあのテンポと間で聞くと大爆笑なのだ。
だからやすきよ漫才は作品になるのだ。
今の若手芸人の「楽屋話」が作品として語られるとは思えない。
彼らネタ下ろしのライブは行っているのだが、
それが、今のボクの印象には残っていない。
ライブDVDも見るのだが、ギャグのフレーズは別として、
爆笑問題の「○○」はいいなあ。さまあ~ずの「△△」は最高だよ、とはいかないもの。
先日、横山ノックが死んで、テレビでマンガトリオの3人漫才を見たけど、
やっぱり、面白いよ。あれは作品だね。
マンガトリオのDVDがあったら借りて見直したいなあ。
実は、この系譜、アタシ的には切れてしまっています。
上方落語は別でしょうが…。
それは関東の笑いに対するセンスなんじゃないかな?と。
どんな事しても笑わせてやるみたいな鬼気迫るものを持った落語家さんが関東にはいないんじゃないか?
いや、新作落語派はいっぱいいるんですよ。
本格派とか作品派と分類されるタイプの中にも笑わせるツボを持ってる人はいっぱいいますよ。
でも、その「笑い」だけにとことんこだわった落語家が何人いるのか?と言われたら、どーなんだろ?
あえて言っちゃうと今なら春風亭昇太くらいかなあ。
でも、正直、彼の笑いだって、爆笑王のレベルじゃないよね。
今は、特に東京落語ではそれが難しいのかも知れないね。
かわいそうだけど、昇太は確かに面白いんだけど、
はっきり言って小朝や志の輔の方が面白いんだもん。
面白い落語家さんでも、じっくり聴かせたい、みたいな作品志向を感じるんですよね。
それはそれで好きなんだけど。
上方落語には「笑わせてやる」という迫力がある。
でも、アタシの関西爆笑王の流れは枝雀で留まってる。
枝雀の狂気すら感じた「あたま山」をボクはたぶんテレビで聞いた。
主人公が自分の頭に出来た池に身を投げて死んでしまうというナンセンスの極致を
観客に「アレ?」と立ち止まらせることなく演じるのは、技術を超越した何かだと疑わない。
落語ってのは、高座の上で演者が、自分の語る落語〔\物語)を観客の頭の中で絵のついたドラマとして再構築させるもので、談志言うところの業の肯定、超克の有無は別として技術的にはあまり変わらない。
音楽と同じ、再現芸術である。
「あたま山」ってのは映像にする事がほとんど不可能な(映像にして外国の映画祭で表彰された人がいたけどネ)物語で、ケチな男がサクランボの種を飲み込んで出さなかったら、頭の上に桜の木が生え、満開の花が咲いた。その「あたま山の桜」を目指して花見客が集まり大騒ぎ。煩くてたまらない男は件の桜を引っこ抜いてしまう。するとある日大雨に降られ、今度は桜を抜いたくぼみに貯まって池ができた。さて、「あたまが池」でつりをする客が集まってまたまた大騒ぎ、すっかり参ってしまった男、ついに自分の頭の池に自分身を投げて「死んじまったとさ~」と下げる。
さて、この常人の頭では消化できないSF落語。
みなさんこの話を絵にできないでしょ?
できたアナタは枝雀以上の天才!
枝雀さんは、これを絵に出来ない混沌のまま観客に提示し、
絵を作らせないまま爆笑の中に混ぜ込んで下げてしまう。
爆笑の天才。
そして枝雀さん以降の爆笑王も現われていない事を考えると、
やっぱり爆笑落語は危機なのかも…。
立川談志家元の現代落語論によれば圓蔵ではなく「エンゾー」なんだそうだが、
圓蔵師匠が月の家圓鏡と名乗って「お笑い頭の体操」に出ていた頃、
ボクは「テレビ演芸」で、圓鏡の「堀の内」を聞いて文字通り抱腹絶倒笑い転げた記憶がある。
師匠、お客をいじりながらその一体感を盛り上げ、テンポよく話の中に引きずり込む手法は独特。
「根岸」と呼ばれていた爆笑王の先輩、林家三平師匠は高座からお客に話しかけたさきがけだと思うが、
その客の心をつかむ天才だった。
圓鏡師匠は、別な意味で天才。この人には三平師匠にはないテンポと、不条理なまでのギャグがあった。
そして観客とのライブ感。
無理やりにでも笑わしてやる凄さがあった、とは言いすぎか…。
ラジオ番組で圓鏡の名前を聞かない日はない時期があったナ。
「早いのがとりえ」ってね。
これは「お笑い頭の体操」か
東京に出てきて、鈴本の昼席のトリが圓蔵師匠「反対車」
違う日に新宿の末広亭昼席終了後偶然テレビ番組の公開収録があって、
ボクの前に山本益博が座ったわけなんだが、それはいいとして。
この日の出演者は…と見ると高座に円蔵師匠が登場。
ネタは…やっぱり「反対車」
同じ月に2回同じ噺を聞いたのも珍しいが、微妙に違うギャグを使いわけていたっけ…。
さすが爆笑王。
談志、圓楽、志ん朝と並んで落語の若手四天王と呼ばれていたっけ。
今、寄席に残っているのは圓蔵師匠一人だけ。
時の流れは無常ですね。
今、テレビに出てくる「お笑い芸人」は、あきらかに歌手や俳優などと同じ「タレント」でくくられる。
彼らの芸は寄席なんてダサイ場所ではなく、クラブやライブスペースで行われる。
だから彼らのお笑いはライブと呼ばれ、この点に関しても、歌手、アーティストと変わらない。
一方でタレント、アーティストの側も、MCなどに「お笑い」のネタを散りばめ、ファンをひきつける。
もともと感性の鋭いタレントの事、談志師匠ではないが、「人間の業を肯定」し「現代」をライブに語る彼らは、寄席芸人、特に落語家が、かつて担っていた部分を受けつごうとしている。それだけ寄席芸人が現代から離れてしまったとも言えるのだが。
彼らには流行を追う目がある。ジャニーズのタレント~特にSMAPあたりにはいいブレインも付いている。
彼らのコントは、下手な若手お笑い芸人のレベルを超えていると思う。
女性だって、ハロプロのタレントたちや、サンズ(イエローキャブ)のグラビアアイドルなど、お笑いやバラエティを志向するタレントも多く存在するわけでネ。
「めちゃイケ」や「はねとび」のメンバーたちや、「笑金」「エンタの神様」に登場する芸人?たちには、
アイドル並の声援が飛ぶ。実際彼らのファンの感性はジャニーズファンと全く変わらない。
お笑い芸人達はファッショナブルで、時代の波に乗っているのだから、確かに立派なアイドルである。
ただ、オジさんはその波に乗っていないんだなこれが。
楽屋話、時事ネタ、そして客いじりに見られるライブ感覚に強い彼ら。
しゃべくりという基礎が弱い。
作品としての型がない。
芸人としての「何か」を感じない。
「何」なんだろう?
確かにボクはダウンタウンのよくわからないまま笑わせてしまう「才能」の漫才で受ける。
アンガールズの不可解なコントでも笑いのネタを何とか見つける。
さすがにムーディ勝山には5年後残っててくれと願わずには居られないが。
でも、その一方で、ネタを見なくなった人気芸人も多い。
ナイナイやロンブーは最近コントを見ていない。爆笑問題はエセ文化人になっちまった。
くりーむしちゅーもさま~ずもボクにとってはテレビの司会だ。芸人じゃない。
つまり、ネタやらなくても人気者は人気者だ。
それでいいのだ。
でも、これはつらい。
ギャグは才能
でも才能は磨り減る。
ネタはセンス
でもそれらは鮮度が落ちる。
「笑わせる」というのは本当に難しいし、それだけに尊敬に値する芸だと思う。
だからこそ「軽くて微妙な」今のお笑いブームには不安を禁じえない
現に「笑金」は放送を終了するそうだ。
これはブームじゃなくてバブルじゃないか?とボクは心配している。
ガッカリだよ!