えー、今日び、ボーイズと言われる芸人は、
東京では数えるほどしかございません。
・玉川カルテット(毎度皆様おなじ~みの~)
・灘康次とモダンカンカン(地球の上に朝~が来る~)
・バラクーダ(酒が飲める酒が飲める酒が飲めるぞ~)
そして東京ボーイズである。
…と、仲八郎さんが言っていた。
実は、他に
アンクルベイビーというグループもあるそうです。
♪天気がよければ晴れだろう!天気が悪けりゃ雨だろう!
雨が降ろうと、風力吹こうと東京ボーイズほがらかに~ !
東京ボーイズは、永六輔さんと組んで、コーラスを披露したりもしていました。
(渋谷ジャンジャンにて、制作/内海好江・作&演出/永六輔・音楽指導/小泉源兵衛で、コミックコーラス「五六八雑唱団」始まる。ボーイズバラエティ協会プロフィールより)
五六八雑唱団を企画した故内海好江師匠に、コーラスが出来ないと泣き付いたら物凄く叱られたと舞台で語っていた記憶があります。
さて、東京ボーイズの芸と言えば、「謎かけ小唄」です。
こんな感じ
♪SMAPという歌手を 謎かけ問答で解くならば 評判のいい旅館と解きまする 仲居(中居)がしっかりしています♪
♪氷川きよしという歌手を 謎かけ問答で解くならば 高いメロンと解きまする 甘いマスク(マスクメロン)が売れてます♪
♪北島三郎という歌手を 謎かけ問答で解くならば ギャンブルぜったい負けません トントントン トントントン♪
♪天童よしみという歌手を 謎かけ問答で解くならば 神の教えと解きまする 神は2物を与えない♪
これ、今年8月、飛行機の中で聞きました。
仲八郎さんの漫談というスタイルでした。
旭五郎さんが亡くなったのが、今年2007年10月だから、
この芸も見られなくなるのかね。
ボーイズという芸が段々少なくなってくるな…
東京では数えるほどしかございません。
・玉川カルテット(毎度皆様おなじ~みの~)
・灘康次とモダンカンカン(地球の上に朝~が来る~)
・バラクーダ(酒が飲める酒が飲める酒が飲めるぞ~)
そして東京ボーイズである。
…と、仲八郎さんが言っていた。
実は、他に
アンクルベイビーというグループもあるそうです。
♪天気がよければ晴れだろう!天気が悪けりゃ雨だろう!
雨が降ろうと、風力吹こうと東京ボーイズほがらかに~ !
東京ボーイズは、永六輔さんと組んで、コーラスを披露したりもしていました。
(渋谷ジャンジャンにて、制作/内海好江・作&演出/永六輔・音楽指導/小泉源兵衛で、コミックコーラス「五六八雑唱団」始まる。ボーイズバラエティ協会プロフィールより)
五六八雑唱団を企画した故内海好江師匠に、コーラスが出来ないと泣き付いたら物凄く叱られたと舞台で語っていた記憶があります。
さて、東京ボーイズの芸と言えば、「謎かけ小唄」です。
こんな感じ
♪SMAPという歌手を 謎かけ問答で解くならば 評判のいい旅館と解きまする 仲居(中居)がしっかりしています♪
♪氷川きよしという歌手を 謎かけ問答で解くならば 高いメロンと解きまする 甘いマスク(マスクメロン)が売れてます♪
♪北島三郎という歌手を 謎かけ問答で解くならば ギャンブルぜったい負けません トントントン トントントン♪
♪天童よしみという歌手を 謎かけ問答で解くならば 神の教えと解きまする 神は2物を与えない♪
これ、今年8月、飛行機の中で聞きました。
仲八郎さんの漫談というスタイルでした。
旭五郎さんが亡くなったのが、今年2007年10月だから、
この芸も見られなくなるのかね。
ボーイズという芸が段々少なくなってくるな…
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前にも、書きましたが、
アタシが初めて生で観た(そして最初で最後になっちゃった)
古今亭志ん朝師匠の口演は「幾代餅」だったんです。
もちろん、志ん朝落語は文七元結とか、柳田格の進とか、愛宕山とか、
いろいろテープで聴いてますが、生で聴くのがやっぱり一番。
この噺、搗(つ)き米屋の職人で清蔵という若者が、錦絵の中の花魁(おいらん)の幾代太夫に一目惚れしてしまい、恋わずらいになってしまった事から始まります。
(今で言えば、ブロマイドのアイドルに惚れて寝込んじまったのと同じ事ですね。純情なものです。)
困った親方が1年間働けば連れていくと約束して清蔵の病は治りました。
そして1年後一生懸命働いて溜まった13両2分に、親方が足して15両持たせて廓に出してやる。
そんなわけで、(確か)ある商家の若旦那として首尾良く幾代太夫に会えた清蔵。
夢のような時間は過ぎて後朝(きぬぎぬ)の別れと相成る。
幾代太夫が聴くわけですな。
「主は何時来てくんなんす」
この辺りなんざあ、吉原のソ-プで帰り際女の子が名刺をくれるのと同じだって気もしますが…。
困ってしまった清蔵さん、
洗いざらい全てを話し、頭を下げます。
錦絵の幾代太夫に惚れてしまった事、親方との約束で一年間働いて足りない分を足してもらい搗き米屋の若い衆では会わせてはもらえまいと、造り酒屋の若旦那と嘘をついた事…。
「また明日から一年、一生懸命働いて金を貯めたら会いに来ますんで、そ
の時は……、その時は、昨日のように会ってくださいまし」
紙ほど薄い人情の世の中に、この男ほどまことのある人はいない…
幾代は感動して
「来年の3月、年(年季)が明けたらわちきを女房にしてくんなますか?」
清蔵意味が飲み込めない。
「へ、へ、へぇ?」
「わちきを女房にしてくんなますか?」
「…くんなますよ~」※ここで会場大笑い。アタシは涙が出た。
二人は夫婦約束をし、持参金50両を預かって帰ってくる。
周囲はびっくりだ。
清蔵と言えば、これはもう一生懸命働きます。来年の3月、来年3月と唱えているうちに誰も清蔵を名前で呼ばなくなった。
「お~い、来年3月ぅ!」「へ~い」ってね。
そして、待ちに待った3月、幾代が搗き米屋の前に着き、めでたく夫婦に。これを期に両国に、餅屋を始める。名物の幾代餅が有名になっておおいに繁昌したって噺。
この幾代さんは実在のお女郎さんで、太夫ほどの位はなかったが、幾代餅を売り出して、大変評判を取ったという。明治の初めまで、両国広小路に店が有ったそうですな。
志ん朝さんが演じたこの噺、
幾代太夫が清蔵に夫婦の約束を交わす場だけじゃなくて
翌年の3月、幾代がやってきた時の小僧さんとの会話もいい。
「小僧どん、小僧どん。中に清やんが居なんしたら、新町から幾代が来たとどぉぞ伝えてくんなまし」
「へ・へ~~い。親方ぁ~~、親方ぁ~~」
「おい、どうしたぁ?」
「来年3月、来年3月がくんなました…親方どうしまほう?」
「馬鹿!何て口きいてんだい、早く清蔵を呼んで来い!」
それから、
幾代餅が有名になったときのお客の会話。
確かこんな感じ…
「聞いたか?」
「何を?」
「何をじゃないよ、幾代餅のことだよ」
「知らねえなあ」
「何、知らねえだと?…死ねぃ!」
「な・なんだよぅ」
同じ場面を
確か馬生さん(金原亭=志ん朝さんの兄)は
「知らない?…お前さん死んじまいな」とやるところで
志ん朝さんは、前を省略して「死ねぃ!」と強くやる。
きっちりやる芸もよし、
思い切った演出をしたりする芸もまたよし。
あの迫力ある幾代餅を演じられるって誰だろうかな?
小朝かな?
志の輔じゃあ、ないな。ちょっと違うかも。
志らくかな?
意外と今の正蔵なんか清蔵の情けないところが出て面白いかも知れないな。
こんな事を考えるのご一興。
自分だけの寄席を想像あれ。
とにかくあの日の志ん朝が演った幾代餅は素晴らしかった。
…もう死んじゃったんだよねえ。
アタシが初めて生で観た(そして最初で最後になっちゃった)
古今亭志ん朝師匠の口演は「幾代餅」だったんです。
もちろん、志ん朝落語は文七元結とか、柳田格の進とか、愛宕山とか、
いろいろテープで聴いてますが、生で聴くのがやっぱり一番。
この噺、搗(つ)き米屋の職人で清蔵という若者が、錦絵の中の花魁(おいらん)の幾代太夫に一目惚れしてしまい、恋わずらいになってしまった事から始まります。
(今で言えば、ブロマイドのアイドルに惚れて寝込んじまったのと同じ事ですね。純情なものです。)
困った親方が1年間働けば連れていくと約束して清蔵の病は治りました。
そして1年後一生懸命働いて溜まった13両2分に、親方が足して15両持たせて廓に出してやる。
そんなわけで、(確か)ある商家の若旦那として首尾良く幾代太夫に会えた清蔵。
夢のような時間は過ぎて後朝(きぬぎぬ)の別れと相成る。
幾代太夫が聴くわけですな。
「主は何時来てくんなんす」
この辺りなんざあ、吉原のソ-プで帰り際女の子が名刺をくれるのと同じだって気もしますが…。
困ってしまった清蔵さん、
洗いざらい全てを話し、頭を下げます。
錦絵の幾代太夫に惚れてしまった事、親方との約束で一年間働いて足りない分を足してもらい搗き米屋の若い衆では会わせてはもらえまいと、造り酒屋の若旦那と嘘をついた事…。
「また明日から一年、一生懸命働いて金を貯めたら会いに来ますんで、そ
の時は……、その時は、昨日のように会ってくださいまし」
紙ほど薄い人情の世の中に、この男ほどまことのある人はいない…
幾代は感動して
「来年の3月、年(年季)が明けたらわちきを女房にしてくんなますか?」
清蔵意味が飲み込めない。
「へ、へ、へぇ?」
「わちきを女房にしてくんなますか?」
「…くんなますよ~」※ここで会場大笑い。アタシは涙が出た。
二人は夫婦約束をし、持参金50両を預かって帰ってくる。
周囲はびっくりだ。
清蔵と言えば、これはもう一生懸命働きます。来年の3月、来年3月と唱えているうちに誰も清蔵を名前で呼ばなくなった。
「お~い、来年3月ぅ!」「へ~い」ってね。
そして、待ちに待った3月、幾代が搗き米屋の前に着き、めでたく夫婦に。これを期に両国に、餅屋を始める。名物の幾代餅が有名になっておおいに繁昌したって噺。
この幾代さんは実在のお女郎さんで、太夫ほどの位はなかったが、幾代餅を売り出して、大変評判を取ったという。明治の初めまで、両国広小路に店が有ったそうですな。
志ん朝さんが演じたこの噺、
幾代太夫が清蔵に夫婦の約束を交わす場だけじゃなくて
翌年の3月、幾代がやってきた時の小僧さんとの会話もいい。
「小僧どん、小僧どん。中に清やんが居なんしたら、新町から幾代が来たとどぉぞ伝えてくんなまし」
「へ・へ~~い。親方ぁ~~、親方ぁ~~」
「おい、どうしたぁ?」
「来年3月、来年3月がくんなました…親方どうしまほう?」
「馬鹿!何て口きいてんだい、早く清蔵を呼んで来い!」
それから、
幾代餅が有名になったときのお客の会話。
確かこんな感じ…
「聞いたか?」
「何を?」
「何をじゃないよ、幾代餅のことだよ」
「知らねえなあ」
「何、知らねえだと?…死ねぃ!」
「な・なんだよぅ」
同じ場面を
確か馬生さん(金原亭=志ん朝さんの兄)は
「知らない?…お前さん死んじまいな」とやるところで
志ん朝さんは、前を省略して「死ねぃ!」と強くやる。
きっちりやる芸もよし、
思い切った演出をしたりする芸もまたよし。
あの迫力ある幾代餅を演じられるって誰だろうかな?
小朝かな?
志の輔じゃあ、ないな。ちょっと違うかも。
志らくかな?
意外と今の正蔵なんか清蔵の情けないところが出て面白いかも知れないな。
こんな事を考えるのご一興。
自分だけの寄席を想像あれ。
とにかくあの日の志ん朝が演った幾代餅は素晴らしかった。
…もう死んじゃったんだよねえ。
突然ですが、
「家族そろって歌合戦」って番組をご存知でしょうか?
「おじいちゃん、は~いは~い、おばあちゃん、は~いは~い。
お父さんもお母さんも、みんな一緒に、
ドレミファソラシド、ドドレミファソラシド~♪
さ^あさ~あ、寄っといで、家族そ~ろ~って、歌合戦~♪」
こんなオープニングで始まったTBS系の番組。
視聴者参加型のはしりですな。
「アタシの方からウサギさんチームどうぞ!」
「こちらの方からゾウさんチームどうぞ」
ついでに
「ここでスポンサーからのお知らせを~どうぞ!」
アタシは子どもの頃、この番組の公開録音を見に行った事があります。
生はいいですね。
放送で流せないところに一番面白いことがあると知ったのがその時でした。
北海道には寄席がありませんでしたので、
収録の合間に、司会のてんやわんやさんが話すちょっとしたやりとりが面白かったなあ。
この獅子てんや瀬戸わんや、
ご存知でしょうが、獅子文六さんの「てんやわんや」という小説からとったものです。
「ぴ・ぴ・ぴーよこちゃんじゃ、あひるじゃがぁがぁ」
「いーとこはーとこ、いとはとこ」
これはたぶんレコードにもなったフレーズだと思いますが、
個人的に大好きだったのは、
「なんで行ったの?」という作品。
わんやさんが岡山のおばあちゃんの米寿の祝いに行った話をキッカケに、
てんやさんが「何で(HOW=どうやって)行ったの?」と聞くのを、
わんやさんが「何で(WHY=どういう理由で)行ったの?」と聞き違えて、平行線の勘違いが繰り広げられる噺。
昔、腹を抱えて笑いましたよ。
てんやわんやさんの芸は嫌味や毒がなかったですね。
わんやさんの身体的特徴(ハゲ・チビ)をターゲットにしたギャグや笑いもあったんだけど、
不思議と不愉快なものが残らなかった。
お2人の人柄だったんでしょうかね。
昔の東京漫才には毒はなかった。
客から笑いを「取って」やるといった強引なものはありませんでした。
劣等感のでもなく、下ネタでもなく…
あの気品は、今のどの漫才コンビにもないものです。
…時代だったんでしょうかね?
「えー下谷の山崎町を出まして、あれから上野の山下に出て、三枚橋から上野広小路に出まして、御成街道から五軒町へ出て、そのころ、堀様と鳥居様というお屋敷の前をまっ直ぐに、筋違御門から大通りに出まして、神田須田町へ出て、新石町から鍋町、鍛冶町へ出まして、今川橋から本白銀町へ出まして、石町へ出て、本町、室町から、日本橋を渡りまして、通り四丁目へ出まして、中橋、南伝馬町、あれから京橋を渡りましてまっつぐに尾張町、新橋を右に切れまして、土橋から久保町へ出まして、新橋の通りをまっすぐに、愛宕下へ出まして、天徳寺を抜けまして、西ノ久保から神谷町、飯倉六丁目へ出て、坂を上がって飯倉片町、そのころ、おかめ団子という団子屋の前をまっすぐに、麻布の永坂を降りまして、十番へ出て、大黒坂から一本松、麻布絶口釜無村(あざぶぜっこうかまなしむら)の木蓮寺へ来た時にゃ、みんなくたびれた…言ってる私もくたびれた」
今の地名で言いなおすと
「えー、東上野4丁目を出まして、あれからJR上野駅南口に出て、三橋から上野広小路に出まして、中央通りから外神田5.6丁目あたりに出て、外神田3丁目と外神田6丁目あたりえを真っ直ぐに、神田須田町の北から中央通りに出まして、神田須田町に出て、須田町交差点左角から神田須田町1丁目の南をJR神田駅周辺、鍛冶町と日本橋室町の間を日本橋本石町、日本橋本町、日本橋室町から日本橋を渡って日本橋1~3丁目に出まして、八重州通り、京橋1丁目から3丁目、首都高速のガード下を渡り、銀座5~6丁目銀座8丁目を右に切れ、JR新橋駅北側、西新橋1丁目に出ましてイイノホールの有るビルの南角あたりから愛宕山の東側の道に出まして、愛宕山裏の虎ノ門3丁目を抜けまして、虎ノ門5丁目から日比谷線神谷町駅前、麻布台2丁目にあるロシア大使館前の狸穴(まみあな)交差点に出て、坂を上がって麻布台3丁目、その頃、おかめ団子という団子屋の前六本木5-18-1を真っ直ぐに、麻布の永坂を降りまして、麻布十番へ出て、元麻布1丁目から麻布絶江坂あたりにあったらしい、木蓮寺に来た時にはみんなとってもくたびれた。」となるらしい。
一般的には志ん生の噺で有名だが、アタシはこの噺、最初に談志で聞きました。
「 ワーワー言いながら下谷の山崎町を出た。上野の山下を回って上野の広小路、新黒門町から御成街道を真っ直ぐに五軒町へ出る。当時、堀丹波守様というお屋敷がありましたそうで、この前を通って旅籠町へ出る。仲町、花房町、筋違御門から大通りへ出る。神田へ出てまいりまして、新石町、須田町、鍋町、鍛冶町、乗物町、今川橋を渡って本白銀町へ出る。石町から本町、室町から日本橋を渡って通り3丁目、中橋から南伝馬町へ出る。京橋を渡って真っ直ぐに銀座四丁を突き抜ける。尾張町、竹川町、出雲町。新橋の手前を右に切れまして、土橋を渡って、兼方町へ来る。久保町へ出る。新し橋の通りを真っ直ぐに、左に曲がって愛宕下から天徳寺へ抜ける。西の久保から神谷町、飯倉の坂ぁ上がって、六丁目から飯倉片町へかかって、狸穴の通りへやって来る。右に上杉様のお屋敷を見ながら、左に、当時流行った”おかめ団子”という評判の団子屋の前を通り、左に麻布の永坂下って麻布十番に出た。坂下町から大黒坂登って、一本松から麻布絶口釜無村の木蓮寺に着いた。時には連中くたびれた・・・って当たり前だよねえ。」
飄々とした志ん生、リアルな談志、
書いてるアタシもくたびれた。
黄金餅と言う噺、
けちで有名な再念という坊主(差別用語)が病気になって品詞の状態になったが、金に気が残ってし寝ない、思い余って隣りの金山寺みそを売ってた金兵衛に買ってもらったぼた餅に金を詰め込むと、それを食べて死んでしまう。金兵衛、そどうしても金が欲しい。それで、葬式を上げてその死体を焼いて西念の食べた金を取り出す事を考えるんだ。
「お腹の辺りは生焼けにしろ」なんてところは笑えるが、とにかくこうして取り出した金を元手に餅屋を開いて大成功、この店の御餅は「黄金餅」となって有名になったとさ。
少し救いのない噺、しかし、自分のカルマを背負っても生き切る人間の逞しさがにじみ出る話です。
今の地名で言いなおすと
「えー、東上野4丁目を出まして、あれからJR上野駅南口に出て、三橋から上野広小路に出まして、中央通りから外神田5.6丁目あたりに出て、外神田3丁目と外神田6丁目あたりえを真っ直ぐに、神田須田町の北から中央通りに出まして、神田須田町に出て、須田町交差点左角から神田須田町1丁目の南をJR神田駅周辺、鍛冶町と日本橋室町の間を日本橋本石町、日本橋本町、日本橋室町から日本橋を渡って日本橋1~3丁目に出まして、八重州通り、京橋1丁目から3丁目、首都高速のガード下を渡り、銀座5~6丁目銀座8丁目を右に切れ、JR新橋駅北側、西新橋1丁目に出ましてイイノホールの有るビルの南角あたりから愛宕山の東側の道に出まして、愛宕山裏の虎ノ門3丁目を抜けまして、虎ノ門5丁目から日比谷線神谷町駅前、麻布台2丁目にあるロシア大使館前の狸穴(まみあな)交差点に出て、坂を上がって麻布台3丁目、その頃、おかめ団子という団子屋の前六本木5-18-1を真っ直ぐに、麻布の永坂を降りまして、麻布十番へ出て、元麻布1丁目から麻布絶江坂あたりにあったらしい、木蓮寺に来た時にはみんなとってもくたびれた。」となるらしい。
一般的には志ん生の噺で有名だが、アタシはこの噺、最初に談志で聞きました。
「 ワーワー言いながら下谷の山崎町を出た。上野の山下を回って上野の広小路、新黒門町から御成街道を真っ直ぐに五軒町へ出る。当時、堀丹波守様というお屋敷がありましたそうで、この前を通って旅籠町へ出る。仲町、花房町、筋違御門から大通りへ出る。神田へ出てまいりまして、新石町、須田町、鍋町、鍛冶町、乗物町、今川橋を渡って本白銀町へ出る。石町から本町、室町から日本橋を渡って通り3丁目、中橋から南伝馬町へ出る。京橋を渡って真っ直ぐに銀座四丁を突き抜ける。尾張町、竹川町、出雲町。新橋の手前を右に切れまして、土橋を渡って、兼方町へ来る。久保町へ出る。新し橋の通りを真っ直ぐに、左に曲がって愛宕下から天徳寺へ抜ける。西の久保から神谷町、飯倉の坂ぁ上がって、六丁目から飯倉片町へかかって、狸穴の通りへやって来る。右に上杉様のお屋敷を見ながら、左に、当時流行った”おかめ団子”という評判の団子屋の前を通り、左に麻布の永坂下って麻布十番に出た。坂下町から大黒坂登って、一本松から麻布絶口釜無村の木蓮寺に着いた。時には連中くたびれた・・・って当たり前だよねえ。」
飄々とした志ん生、リアルな談志、
書いてるアタシもくたびれた。
黄金餅と言う噺、
けちで有名な再念という坊主(差別用語)が病気になって品詞の状態になったが、金に気が残ってし寝ない、思い余って隣りの金山寺みそを売ってた金兵衛に買ってもらったぼた餅に金を詰め込むと、それを食べて死んでしまう。金兵衛、そどうしても金が欲しい。それで、葬式を上げてその死体を焼いて西念の食べた金を取り出す事を考えるんだ。
「お腹の辺りは生焼けにしろ」なんてところは笑えるが、とにかくこうして取り出した金を元手に餅屋を開いて大成功、この店の御餅は「黄金餅」となって有名になったとさ。
少し救いのない噺、しかし、自分のカルマを背負っても生き切る人間の逞しさがにじみ出る話です。
「うちら陽気なかしまし娘、誰が言ったか知らないが、女3人寄ったら『かしましい』とは愉快だね…ベリー・グ・グー、ベリー・グ・グー、お笑い、おしゃべり、ミュージック~、あかるく歌ってナイトアンドデイ、ピーチク、パーチク、かしましぃ~♪」
はっきり言って「うちら陽気な~かしましいとは愉快だね」から後は覚えてませんでした。
こんな調子で始まる3人漫才と言えばご存知「かしまし娘」
正司歌江、照枝、花江の3人姉妹で歌江(三味線)照枝(ギター)花江(ギター)3人の音曲漫才は当時(昭和30年代)でも珍しかったらしい。60年代には一世を風靡した漫才グループ。
最近、ネットで調べてわかっただけど、ベリーグ・グー(very good good)とかナイトアンドデイ(night and day)なんてモダンな歌詞を使ってたんですね。
歌江さんは、後に出家し尼さんになりました。現在は女優として活躍中です。照枝さんは、今なら磯野貴理の姑として知られている方。
小唄や歌謡曲を順番に歌いながら途中にマシンガンのようにギャグを散りばめてボケと突っ込みの境界もわからなくなるような怒涛の高座(ステージ?)だった記憶があります。
基本的には姉の歌江さんが突っ込みと進行。照枝が暴れる感じのボケ、花江もボケだが若いから3人の中では美人キャラでいじられ役。妹2人がボケまくり姉がそれを懸命に抑えていく感じじゃなかったかなあ…。
歌江-小唄、照枝-お客をいじりながら歌謡曲、次に花江が歌おうと口をあけるとまた歌江に順番が回り「歌江ねえちゃん!うちかて歌いたいワ!」とむくれると、次女の照枝がそれに突っ込むといった具合。
また「花江ちゃんは森光子タイプ、ワタシ(歌江)は新珠三千代タイプ…」(照枝が)「そしたら、アタシは?」(歌江)「そうやなあ、姉の欲目で…嵐勘寿郎タイプ」(照枝)「アタシは男か!」そうかと思えば、ウエスタンの題材の漫才で、打ち合いのシーン照枝がギターを銃にみたてて、姉(歌江)に向けると「ババババ(銃声)オババ・オババ。オババ!」とやって見せたりアクションもやった。
彼女達の全盛期は多分アタシの子ども時代だが、何をやっても可笑しかった。いつまでも続いて欲しいと思って聞いてた。
でも終わっちゃうんだよね…
最高潮でスパッと切ってエンディングに入るのがもう堪らなかった。
「これでおしまいかしまし娘♪またの会う日を楽しみに…それでは皆様…ご機嫌よう~♪」と下げる。
彼女達は上方演芸大賞を受賞した松竹芸能の看板芸人だったわけだけど、実は3人とも上方生まれじゃない。
歌江さんは歌志内、照枝さんは小樽、花江さんは秋田と全員が東北北海道の出身。(旅回りのせいです)
そう思えば、あの漫才にはあまりコテコテの関西臭さがなかったような気もしますね。
彼女達と競うようにフラワーショー(「ようこそ~みなさん~、ご機嫌よろしゅ~♪うた~って、わら~ってフラワーショー♪」)やちゃっきり娘
(「はぁ~、ちゃっきりちゃっきりちゃっきりな、ちゃっきり娘が!とびだ~し~た~♪」ってオープニング)も登場したけど、かしまし娘のエネルギーが衰えてるとともに、このジャンルそのものが何となく大人しくなってきたのは残念でしたねえ…
あ~、もうネタがなくなった
「これでおしまい かしまし娘またの会う日を楽しみに それではみなさま!ごーきげーんーよ~♪」
はっきり言って「うちら陽気な~かしましいとは愉快だね」から後は覚えてませんでした。
こんな調子で始まる3人漫才と言えばご存知「かしまし娘」
正司歌江、照枝、花江の3人姉妹で歌江(三味線)照枝(ギター)花江(ギター)3人の音曲漫才は当時(昭和30年代)でも珍しかったらしい。60年代には一世を風靡した漫才グループ。
最近、ネットで調べてわかっただけど、ベリーグ・グー(very good good)とかナイトアンドデイ(night and day)なんてモダンな歌詞を使ってたんですね。
歌江さんは、後に出家し尼さんになりました。現在は女優として活躍中です。照枝さんは、今なら磯野貴理の姑として知られている方。
小唄や歌謡曲を順番に歌いながら途中にマシンガンのようにギャグを散りばめてボケと突っ込みの境界もわからなくなるような怒涛の高座(ステージ?)だった記憶があります。
基本的には姉の歌江さんが突っ込みと進行。照枝が暴れる感じのボケ、花江もボケだが若いから3人の中では美人キャラでいじられ役。妹2人がボケまくり姉がそれを懸命に抑えていく感じじゃなかったかなあ…。
歌江-小唄、照枝-お客をいじりながら歌謡曲、次に花江が歌おうと口をあけるとまた歌江に順番が回り「歌江ねえちゃん!うちかて歌いたいワ!」とむくれると、次女の照枝がそれに突っ込むといった具合。
また「花江ちゃんは森光子タイプ、ワタシ(歌江)は新珠三千代タイプ…」(照枝が)「そしたら、アタシは?」(歌江)「そうやなあ、姉の欲目で…嵐勘寿郎タイプ」(照枝)「アタシは男か!」そうかと思えば、ウエスタンの題材の漫才で、打ち合いのシーン照枝がギターを銃にみたてて、姉(歌江)に向けると「ババババ(銃声)オババ・オババ。オババ!」とやって見せたりアクションもやった。
彼女達の全盛期は多分アタシの子ども時代だが、何をやっても可笑しかった。いつまでも続いて欲しいと思って聞いてた。
でも終わっちゃうんだよね…
最高潮でスパッと切ってエンディングに入るのがもう堪らなかった。
「これでおしまいかしまし娘♪またの会う日を楽しみに…それでは皆様…ご機嫌よう~♪」と下げる。
彼女達は上方演芸大賞を受賞した松竹芸能の看板芸人だったわけだけど、実は3人とも上方生まれじゃない。
歌江さんは歌志内、照枝さんは小樽、花江さんは秋田と全員が東北北海道の出身。(旅回りのせいです)
そう思えば、あの漫才にはあまりコテコテの関西臭さがなかったような気もしますね。
彼女達と競うようにフラワーショー(「ようこそ~みなさん~、ご機嫌よろしゅ~♪うた~って、わら~ってフラワーショー♪」)やちゃっきり娘
(「はぁ~、ちゃっきりちゃっきりちゃっきりな、ちゃっきり娘が!とびだ~し~た~♪」ってオープニング)も登場したけど、かしまし娘のエネルギーが衰えてるとともに、このジャンルそのものが何となく大人しくなってきたのは残念でしたねえ…
あ~、もうネタがなくなった
「これでおしまい かしまし娘またの会う日を楽しみに それではみなさま!ごーきげーんーよ~♪」