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2024/11/25 05:56 |
さんまは目黒に限るか?『目黒のさんま』
文化放送「立川志の輔『落語でデート』」
本日は、「目黒のさんま」やってましたね。
演者は、先代の三遊亭金馬師匠。
本題に行く前に、昔の殿様~特に太平の世にぽ~っと育った世間知らずのお殿様の話を長くしてました。

「片仮名のトの字に一の引きようで上になったり下になったり」

昔の御身分の高い方々は、下々の庶民の生活はご存じない。だから常々少しでも知りたいと思っておりますね。

「三太夫」
「はは、」
「今宵は十五夜であるな」
「左様に御座います」
「お月様は出て居るか?」
「…畏れながら、申し上げます」
「なんじゃ」
「『お月様』とは下々の用いる言葉、殿は大名であらせられますれば『お月さま』ではなく『月』と呼び捨てになさいませ。」
「儂が『お月様』と申すのは可笑しいと申すか?」
「和歌・敷島の道におかれましても『月』と一言にござります。」
「そうか、では今一度尋ねる。三太夫!」
「はは」
「月は出て居るか?」
「一点隈なく冴え渡ってございます」
「して星めらもか?」
…「星めら」ってこともないでしょうに…
上の人には下々の暮らしはわからないし、下々には上つ方の暮らし向きはわからない。これがこの噺の一つの大きなテーマ。

「目黒のさんま」とは、とある殿様が家来を連れて中目黒に遠乗りに出た際、空腹に耐えかね、初めて食した秋刀魚の旨さを忘れられず、親戚の御呼ばれで夕餉の希望を尋ねられ「余は、秋刀魚を所望じゃ」とやったことで起きるトラブルのようすを可笑しく語ったものです。
しかし、落語の殿様は「可愛い」んですね。もちろん演者の解釈にもよるでしょうが。
秋の味覚の代表である秋刀魚を知らなかった殿様の滑稽、そして親戚の御呼ばれで予想外の秋刀魚という注文を受け、パニックになった末、「お体に障ってはいけない」ってんで、折角の秋刀魚をわざわざ蒸して油を抜き、さらに骨を抜いて出し殻になったものを出す親戚。その旨くもなんともない「秋刀魚」を食べさせられる殿様を笑う話なんだけど、
何だか殿様がかわいそうになる。

考えてみれば、殿様が遠乗りで秋刀魚を食べたことが知れると家来に迷惑がかかると注文ができない。おそらくオチで「秋刀魚は目黒に限る」と言ったところで、彼はその秋刀魚の抜け殻を美味しいと言って食べなければいけない。箸がつかなければ、調理にあたったものやその家の家老達が叱責を受けてしまう。

ようするに殿様たちは「皆に迷惑をかえてはいけないため」ぽ~っとならざるを得ないのだ。こんな悲しい生き方があるだろうか?

現代に置き換えれば比較できる家はひとつしかない。
あの一族の方々は、今だって落語の殿様みたいな生活をさせられている。
例えば、昔皇太子が学生時代、仲間と山登りに行った時のこと、食事中仲間の一人が何かの弾みで飯盒を落としてしまった。その時周囲は大爆笑だったのだが、皇太子だけは黙って目をそらされたそうだ。
彼は、他人のドジを笑ってはいけないのである。見ないふりをしなければいけないのである。
上つ方も大変なのである。

この噺、殿様という「立場」の悲哀を表したものです。
「秋刀魚」は美味しい魚です。それを周りの人が下々の食す魚だというだけで食べさせない。従って暗愚な殿様ほど不憫なものはないと言うのがこの噺の別なテーマでもあります。
アタシは金馬師匠と圓楽師匠のものを持っていたはずなんだけど、金馬さんのは見つからない…残念。

そう言えば、今この落語にちなんで「目黒のさんま祭り」というのがあるんだけど、これが二つあって本家争いをしているらしい。
今年も9月半ばに駅の西口と東口で行われました。

一つは目黒駅前商店街振興組合青年部の主催で、
岩手県宮古港直送「炭焼さんま食べ放題」と「新鮮さんまお持ち帰り」(5000匹用意)それに徳島県神山町産の「芳醇すだち」(10000個用意)と、栃木県那須塩原市高林産の大根「大根おろし」付き。

もう一つは目黒のさんま祭気仙沼実行委員会の主催で、
名前の通り気仙沼港に水揚げされた5000匹を目黒まで直送、気仙沼市三日町・平野本店の醤油、昆貞本店の豆腐、有機質百%の高品質肥料「弁天魚粕」で栽培された美味しい大根、気仙沼の綺麗な海水を煮詰めて作った天然塩とこちらは気仙沼づくし。こちらは臼杵市からのかぼすを用意。

どちらにしても、美味しい秋刀魚が食べられればいいって事でしょう。
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2007/09/22 16:53 | Comments(2) | TrackBack() | 落語
考えると夜も眠れなくなっちゃうんですよ…(三球・照代)
「地下鉄漫才」で名を馳せた…と言ってもいいのかしら?
春日三球・照代の名コンビ

題名は、その「地下鉄漫才」の有名なフレーズで、
三球「ところで地下鉄はいったいどこから入るのでしょうね?」
照代「何が不思議なの?」
三球「あなた、そんな事考えた事ない?」
照代「ありませんよそんな事」
三球「考えると、また寝らんなくなっちゃう。」
ってくだりからとりました。

「寝らんなくなる」のか「夜も眠れない」だったか「眠れなくなっちゃう」だったかが定かではありません。

この2人、もちろん、正真正銘の夫婦漫才です。
アタシの記憶に残る夫婦漫才では蝶々・雄二、敏江・玲児、唄子・啓介といったところが有名。
しかし、今挙げた夫婦コンビ、みんな別れてしまいましたねえ。
仕事と家庭って難しいのかね。
もちろん、別れていないコンビもありますよ。
宮川大助・花子は今でも健在だし最近では「ポヨヨ~ン」のかつみ・さゆりもいい。
昔なつかしいところではあの人生幸朗、生江幸子(「何ぼやいとるんじゃ、このドロ亀!」「母ちゃん、堪忍、ごめんちゃい」ってあのツッコミは凄かったなあ)それから松鶴家千代菊・千代若(「早く終わって帰ろうよ」ってヤツ、知ってるかなあ?)島田洋之介、今喜多代(漫才の内容は忘れてしまったけど、いくよくるよや島田紳介の師匠であります。)

まあ、夫婦漫才はそれくらいにして、この春日三球さん、元々リーガル千太・万吉のお弟子さんで、(千太・万吉がだいたいわかんないだろうな)違う相方と栗友一休・三休の名前で売れていたんだそうな。
しかし、一休さんが電車の事故(三河島事故)で亡くなって、一人になったので、別な女性漫才の照代さんと組んで再出発、そして結婚したんだそうです。

昔のお笑い番組に出ていた頃の三球・照代を観た事がありますが、後年地下鉄漫才で大ブレークした時の普通のしゃべくりスタイルじゃなくて、照代さんがギター、三球さんがウクレレを持って音楽漫才でした。もっとも、内容は売れた頃と同じ内容なんですけどね。
三球・照代でコンビを組んだのが1966年頃、「地下鉄」で売れたのが1978年だという記録がありますから、10年近くはそんなに売れていなかったわけで、継続は力なりというか、何があるかわからないと言うか、全盛期には三球さんが「地下鉄は…」と言うだけで笑いが出るほどでした。

実際、他にもいっぱい「眠れなくなる」ネタがあったはずなのですが、「地下鉄」が強烈で他のことが記憶になくなるくらい「地下鉄漫才」は売れました。

もっとも、実際の東京の地下鉄は銀座線も丸の内線も東西線も地上に出ている場所があるわけで、さらにほとんどの地下鉄が他の私鉄と連絡している現在「地下鉄をどこから入れたか?」という疑問自体が成立しないわけです。いや、三球・照代が売れていた当時だってそうだったわけで、あの漫才が地下鉄のない地方だけではなく東京の観客にも「ウケた」のは、やはりあの飄々として人を食ったような三球さんの芸のなせる業だったと思いますな。

1987年3月、TBSテレビの「新伍のお待ちどうさま」という公開録画に出演中、照代さんが急にクモ膜下出血で倒れ、そのまま51歳で死んでしまってからは一時期若い女性漫才師で前説をやっていた芳賀みちるさんとコンビを組みますが、結局うまくいかなくて解散。やはり聞きなれてしまった三球・照代の味と別なものを出すことはできませんでした。
三球さんは今、巣鴨で「健康肌着の店-春日三球の店」をやりながらピンで漫談をしているそうです。

ところで、三球・照代解散の後にできた都営大江戸線みたいに、
深い所を走っていて他社と連絡のない地下鉄は、やっぱり
「どうやって(車両を)入れたんでしょうね?」と言いたくなりますね。

誰かご存知ない?
考えると眠れなくなっちゃう…。

2007/09/17 03:41 | Comments(5) | TrackBack() | 漫才
寄席の記憶その2(池袋演芸場)
池袋演芸場は昔、通ってた寄席のひとつです。
改装前は、古いビルの2階にあり、
場内の後ろの方が椅子席。
前の方が畳敷になっていたと記憶しています。
当然ながら?いつもガラガラ。

それでも正月の初席には混んでまして、
登場する噺家さんも、漫才の人も、
出てきて言う話題は同じ(笑)
「いや~、いっぱいのお運びで、何があったのかと思った」とか、
「こちらの寄席が出来て以来の人の入りで…」
中でも亡くなった古今亭志ん馬師匠なんか
(昔、お昼のワイドショーに出ていた人…2代目の意地悪ばあさん役だった人…もっとわかんないか)
「昔、寄席でお客様が混んでくると『お膝送りをお願いします』と言ったもんございますが、本日この池袋演芸場で『お膝送りを…』と言う言葉を聞きましたのは、ワタクシが落語家になってから初めてではないかと思います(アリエネ~!)」とマクラに振ってましたよ。
そのくらい人が入らなかった池袋演芸場ですが、

今はどうなんでしょ?

でも、アタシはこの寄席でいい思いをしています。
ひとつはもう聞きたくても聞けない古今亭志ん朝師匠の高座を生で観たのが、この池袋演芸場。
たまたま、当初予定のトリが圓蔵師匠だったのが交代になったものです。
演目は「幾代餅」いや~その迫力たるや、本当に涙が出るほど笑った記憶があります。

久し振りに覗いたら、ずいぶん立派な外見になって…
入場料も2500円に上がってました。

9月の11~20日は昼席のトリが三遊亭金馬、夜席のトリが古今亭志ん五のベテラン。
一度行かれて見る事をお薦めします。

2007/09/09 00:00 | Comments(0) | TrackBack() | 想いゴト
わかりやすいは、名人の証~金馬さん大好き
一時期、先代の金馬師匠にはまっていた。
もちろん、当人は1964年にはお亡くなりになっているので、
東宝名人会のライブテープなんだけど、

そこで聴いた「居酒屋」にすっかりハマってしまった。

どの解説にも「芸風は明瞭で、老若男女誰でも分かり易いと定評があった。」とあり、それだけに春風亭柳橋などと同じく軽く見られていた時期もあったらしいですナ。

金馬さんの噺は特に子どもや小僧さんの演じ方が好きだった。
「居酒屋」で酔ったお客に無理難題を言われ困る小僧さんの様子。
「薮入り」で奉公に出て久し振りに帰って来た亀ちゃん。
「転失気」で、知ったかぶりの住職を騙す生意気な小坊主。
「茶の湯」で、知ったかぶりのご隠居に振り回される小僧さん。
「雛鍔」に出てくる長屋育ちの抜け目ない子ども。
皆、実に生き生きしていて面白い。

金馬師匠の噺はわかりやすいだけに、
今聞いても、全然鮮度を失わない。

また、これくらいわかりやすい落語家を現代に捜すとしたら、
誰だろう…?

今は個性の時代だから、自分の色を明確に出す人が好まれるわけで。
先代金馬さんのような落語家はしばらく現われないかもね。

いや、今の金馬さんがどうというわけではないんです。
逆に先代は「中村仲蔵」を演れないかも知れないしね

2007/09/08 12:02 | Comments(0) | TrackBack() | 落語
金もいらなきゃ女も要らぬ~(玉川カルテット)


「毎度皆様おなじみの~」のところで宮川左近ショーのことを話しましたが、関東エリア(ただし北海道)出身のアタシには宮川左近ショーより玉川カルテットの方がより身近な芸人さんでした。

結成は1965年というから昭和40年。以来40年以上の長きに渡り同じ芸をやり続け、笑いを取っている。
アタシが小学生か中学生で見ていた頃から、メンバーは若干変わっていても、ギャグは全然変わってないものね。
一番有名なのが題名にした
「金も要らなきゃ女もいらぬ、わたしゃ、も少し背が欲しい~」である。もちろん、二葉しげるさんの至芸である。
その後、リーダーあたりに「少しは違う事やりなよ」と言われて、
「どうせやるならデカイ事しよう、奈良の大仏屁でとばせ」とやって頭をスコ~ンと叩かれる。
あ~、目に浮かぶ(笑)
それから、メガネ(レンズが入ってない)をかけた三味線担当の松木ポン太さんの女形のセリフ「…女って、いつだって(いつの世も?)男のために悩むのね(なぜかこの後アハハハハハハ…と笑って叩かれる)」とか、
ギターの松浦武夫さんの大きな声と大きな口(これは芸じゃないか…。でも歌は上手だった。民謡風のコブシのまわった歌声だったような覚えがある)とか…。今で言うとキャラが立った芸風でした。「でした」と言うのも失礼か。

考えようによってはマンネリ芸である。

でも、この「同じ芸で40年も笑いを取り続ける」と言う事がどれほど大変か、最近の「エンタの神様」のネタ芸人を目に浮かべれば、すぐわかるでしょ?

いわゆる「一発屋」は「マンネリ芸」になり損ねた人たちの事。
これに関しては昔からの芸人の方が図太い、逞しい。
「なんでだろう~」も「ゲッツ!」もあと10年やり続ければ、この境地に至るのか…保証はできませんが。
あ、「チャラチャチャッチャラ~ラ~♪」ってのも2年以内には同じ運命です。

玉川カルテットは、おなじみのウィキペディアによれば、
玉川勝太郎(2代目)の弟子だった玉川ゆたか(故人)と天津羽衣門下の松木ぽん太(三味線)二葉百合子の弟子二葉しげる、ギターの松浦武夫(病気で脱退)で固定メンバーになりました。アタシが見ていた全盛期はこのメンバーです。
このバランスが抜群によかった。ボ~イズ部門の各賞を長らく総なめにしていました。確かこれを破ったのが「日本全国酒飲み音頭」のバラクーダだと思ったけど記憶が薄い。ゴメンナサイ。

その後、リーダーの玉川ゆたかさんが死んでマネージャー兼運転手だった(ホント?)玉川平助さんが新リーダーとして加入-「リーダーとして加入」と言うのも凄いね。
さらに松浦さんが病気で脱退したあとは仲俊二(元ギターの流し)が加入して現在も同じ芸風で続けている。


凄い。

落語は縁者が変わっても同じ作品が別な味わいになって継承されていく。
玉川カルテットは、確かにギャグの担い手は変わっていないけれど、メンバーが入れ替わって芸風が変わって当たり前なのに、
今日もまた「同じ芸」を観客に見せ続けているのです。
「わたしゃも少し背が欲しい~!」ってね。

そう、アタシも青春時代思ったもんです。
「金も欲しいし女も欲しい。そしてできれば背も欲しい~」
バカ者~!!

2007/09/01 09:04 | Comments(0) | TrackBack() | 音曲

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