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2024/11/25 08:54 |
早くしねえと消(け)えるよ…『死神』
これは夏らしい?落語「死神」個人的には三遊亭圓生師匠の作品が好きだった。

昼間から酒を喰らってはゴロゴロしていて、ちっとも働こうとしない八五郎。
女房にガミガミと小言を喰らい、いつもの通りの口げんか、勢いで要望を追い出すどころか、自分の方が出て行く羽目に…。
道端を歩きながら八っぁん考える。

「あ~あ、もう生きてんのが嫌になっちまったなぁ。
いっそかかぁの言う通り、本当に死んじまおうかなぁ~
けど、どうやって死のうかなぁ…首でも吊って…。いや、あれはいけねぇ。前に首吊り見たことがあるんだ。首が伸びて鼻水やよだれが出て、あれは形がよくねぇ。首吊りはやめだな。海にでも飛び込むかな…いや、土左衛門てのもよくねぇな。くたばった後、魚につつかれるなんざゾッとしねぇや…土左衛門もだめだな…(こんな具合に悩んでるヤツは死ねるはずがない。)」
いつしか死ぬ方法ばかり考えている八五郎。
「どうやって死ぬのがかたちがよくて楽かなぁ…」とつぶやくと「教(おせ)えてやろうか?」と声がする。
「えぇっ?あーびっくりしたぁ。誰だお前(めえ)は!汚ねえなりをしやがって…誰だ!」
「薄汚ねぇたぁお互い様だ…おれか? へへへ、おれは…死神だ。」
どうりで…、八五郎、どんなに貧乏しても死にたいと思ったことはないと言う。急に死にたくなったのはお前のせいだと文句を言う…(たいした度胸である)
「へへへへ…そう邪険にするもんじゃねぇよ。別にお前(まい)さんを取り殺そうなんて気はねぇんだ。第一(でぇいち)、お前さんの寿命はまだつきちゃいねぇ。寿命の残ったヤツを殺すなんてことは死神の面子にかけてもできゃしねぇ。安心しな」変な面子もあるもんで…。
話を聞けば人助けをしたいという。金に困った八っあんを助けてよろうと言うのだ。
どうするのだ?と聞くと医者になれと言う。
聞けば、病人の寝ている枕元に死神がいれば助からないが足元にいるなら助ける手立てがあるという。
そのマジナイが「アジャラカモクレン キューライソ テケレッツノパ」と言って手を二つ叩くというもの。(このマジナイ、聞いた事ない?「黄金餅」という噺で、木蓮寺の和尚が適当に唱えたお経が最後に「アジャラカナトセノ キューライソ テケレッツノパ」って言ってた気がするな。

ま、それはさておき…
死神の勧めで「医者」になった八五郎、言われたとおり、死神が足元にいたら「アジャラカモクレン…」と追い払い、すぐに元気になる。一方枕元にいたら「残念ながら…」とお断りして帰ると、本当にすぐ死んでしまう。ああ、この人は名医だと大評判。

ところが調子にのって手にした金で遊び放題、口うるさい古女房を追い出し、使い続ければ元の木阿弥すっからかんになった。ところが、今度は上手く行かず、みんな足元ではなく枕元に座っている。
「こいつはいけません」と言って患者の家を出るとすぐ死んでしまう。昔なら「名医だ」というところだが、今回は「この医者に見てもらうと死ぬ」と噂がたったため、呼ばれなくなってしまう。
そしてついに八五郎は死神との禁を破る。江戸でも一、二を争う金満家の河口屋善兵衛の番頭が飛び込んできてどうしてもと言うから見に行くと、死神は枕元に座ってる(悲)
「だめです」と言う八五郎に、「お金はいくらでもお出しします。」何でも五百両の金を用意していると言う。

この五百両というお金に目がくらんだのだ。
八五郎じゃなくても、心が揺らぐかもね。
病人の枕元に座っている死神の隙を見て、四方に控えた力自慢の若い衆がふとんの四つ端をもってえい、と向きを反対にして「アジャラカモクレン キューライソ テケレッツノパ」驚いたのは死神の方。
気が付くと自分が足元に座ってる。びっくりしたのなんの、こんな話聞いた事も無い、枕元にいたはずがいつのまにか足元にいて、まじないを聞かされちゃった、足元にいてまじないを聞いたら消えなきゃならないのが業界の取り決めというやつ。死神、「ギャーッ」と天井まで跳びあがってそのまま消えてしまった。するといきなり病人が立ち上がって「鰻重と天丼が食いたい」ってんで…(これは志ん生さんのやり方かね。圓楽さんは「今日も元気だ煙草が上手い」とやってた。)
お店の人が喜んだのなんのって…。さっそく手付け?の十両をもらってご機嫌な八五郎。
八五郎、その足でさっそく馴染みの酒屋へ繰り込み、そのまま夜まで呑んで食って、いい心持ちで店を出た。
…八五郎 ああ、ありがてぇ。
「今日は我ながらうまくやったねぇと、布団をぐるっと回して、「アジャラカモクレン」とやった時のあの死神の慌てようったらねぇや。目ン玉ひん剥いて「ギャーッ」って飛び上がりやがった 」
すると、急に死神が「 驚くのは当たり前だ」ときたのでさあビックリ。
「おっと、びっくりしたぁ。お前さん、あの時の死神かい?じゃぁ、何かい?あの枕元の死神はお前さんだったのかい? 」

「お前は恩を仇で返したんだ 」と死神。

「いや、ちょっと待ってくれ、そんなつもりじゃなかったんだ。死神ってのは誰も彼もおんなじような不景気な面...いやいや、皆似た顔でさ、似たような着物着てるからあんただって気がつかなくってさ、いや、もしあんただって知ってたらおれはあんなことしやしなかったぜ、ホント 」

「やったことは取り返しがつかないってのが世の中の決めだ。人に恥をかかせやがって。このままじゃおれは死神仲間の笑い者だ...さ、来てもらうぞ」

八五郎が「どこへ? ど、どこへ連れて行くんだよ! 止めてくれ、離してくれよ! 」というのも聞かずに死神がつれてきたのは、見たことも無い洞窟で、中に入ると一面火がついた蝋燭が置いてあって明るい。
死神の噺では、この蝋燭は人間の寿命だという。

八五郎「『人間の寿命は蝋燭の火のようだ』って言うけど、本当だったのかい? 」
死神 「本当さ、例えばそこの、ほれ半分くらいの長さでボーボー音を立てて燃えてるヤツよ」
「あ、これ?なんか、勢いがありますねぇ」
「そりゃ、お前の別れたかみさんの寿命だ 」
「 へぇ、なるほどねぇ。へへっ、あいつらしいや。音がガミガミ言ってるように聞こえてくらぁ。で、その横の、長くて威勢のいいのは?」
「そりゃお前の息子の寿命だ。こいつは長生きするぜ。」
そしてその横に今にも炎の消えそうな蝋燭が…。
「死神さん、これは、ひょっとして」
「お前の寿命だよ。よぉく見ておきな。もうすぐ消える。消えたら死ぬんだ。」
「えっ?」
何でも、あの布団をひっくり返して助けた金持ちの寿命と取り替えてしまったのだそうだ。助かるにはこの手許にある燃えさしに移しかえなければならない。
必死になる八五郎だが手が震えて上手くいかない…。
そこで死神がいう気味の悪いセリフが「早くしねぇと消えるよ…」なのである。

この噺、最後は八五郎がばったり倒れて、死神が「…消えた」とやる圓生師匠の噺を最初に聞いたのでその印象が強いのだが、従来のやり方は弟子の圓楽師匠がやられるように、八五郎が「消える…」と言ってばったり倒れる方が多かったような気がする。
移しかえに成功して喜んだのもつかの間、自分のくしゃみで火を吹き消してばったり倒れるのが小三治師匠。

つまり「主人公が死んで」終わる後味のよくない噺だから、どういう風に終えればうまく納まるか、これが難しく演者の実力が楽しめる噺なわけで…

おっと、グズグズしてるとアタシも消えるよ…。
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2007/08/24 03:03 | Comments(0) | TrackBack() | 落語
青火がぱあ~、ボヤがぽお~(中田ダイマル・ラケット)
冒頭のセリフは、「ダイラケ」こと上方漫才の巨匠中田ダイマル・ラケットの代表作『僕は幽霊』の有名なフレーズです。

アタシがテレビやラジオでダイラケ漫才を聴いたのは、もう彼らの晩年になった頃なんだろうが、その芸は現在のお笑いの中でも彼ら以上に笑いを取れるんだろうな…。
ダイマルさんの飄々としたボケに、ラケットさんのツッコミ。
一番覚えていたのが「青火がぱあ~、ボヤがぼお~」と「あ、いっしょやいっしょや」「いい加減にせい」
本当にツボにはまった時の漫才は本当に凄いパワーがあるんですね。
全盛期のときには「3秒に1回笑わせる漫才」といわれたのだそうな。
たぶん保存しているカセットテープの中にも、ダイラケの漫才の入ったものがあるはずだ。

これはNHKラジオでダイラケの漫才を5夜通しで放送した時のもので、
アタシは最晩年までダイラケをテレビラジオで聴いていたな。
彼らは最後まで枯れる事のない現役だったな。

アタシは「エンタツ・アチャコ」を殆ど知らないので、ちゃんと聴いた上方漫才はダイラケが最初だと思う。
それから「いとこい」(夢路いとし喜味こいし)「唄子啓介」(京唄子、鳳啓介)「敏江玲児」(正司敏江・玲児)と続く。
もちろん、「かしまし娘」と「宮川左近ショー」は外せませんがね。

あんなに笑ったダイラケなのに「青火がぱあ~」くらいしか思い出せないのは悔しいね。
漫才芸やその作品は落語と違って、一代芸なんですよね。
落語は昔から代々多くの落語家が磨き上げてきたソフトで、
余分なところを切ったり、解釈を加える事で現代に残していくのだが、
漫才は作家と漫才師の共同作品で、キャラクターに負うところが多いからかな?

演者が死んでしまうと、作品も死んでしまうんですよね。

「ダイラケ」「いとこい」「やすきよ」なんかの作品を物まねやパロディではなく、敬称するシステムがあると面白いのになあ。

「僕は幽霊」なんか弟子の「カウス・ボタン」でやれないのかね?
…無理か。

2007/08/19 20:02 | Comments(1) | TrackBack() | 漫才
地方まわりの芸人達の思い出(ボン・サイト他)
昔、アタシの家族は大晦日を温泉旅館で過ごしていた。
我が家は北海道の札幌で、父方の田舎が定山渓という温泉場にあったからだ。
昔は豊平駅から定山渓鉄道に乗って行ってたが、その後この鉄道がなくなると、後を継いだ「じょうてつバス」に乗って定山渓温泉に行ったのである。
正月を迎えるのは家族だけのこともあったけど、賑やかな事の好きな親戚連中も加えた大所帯で移動することもあった。
「定山渓ホテル」であったり「鹿の湯」であったり、「章月グランド」であったり…。
子ども心にも、大晦日は大イベントで楽しかった。
何よりも、夜更かしができたナ。

…えーと、アタシは普通に昔話をしたいわけじゃありません。
昔話は別の機会に別の場所でしたいと思います。

このブログに沿った話をすると、
こういう温泉場には、必ず地方周りの芸人さんが来ていたのね。
今で言うとスーパー銭湯のショーみたいなモン。
今では絶滅した感のある「ヘルスセンター」にも来てたっけね。
名前の知れた落語家のような芸人さんが一人、あとは手品師、色物芸人、音曲漫才…。
大宴会場で、ビールを飲んだり飯を食べている人達を前にして、合間にフィリピンやタヒチアン・ダンスのショーを見せて、邪魔にならない芸を見せていた。というか、タヒチアンショーの合間に演芸を見せていたと言った方がいいかな?
手品師たって美女が宙に浮くみたいなものを見せてくれるわけじゃない。
お客さんを舞台に上げて自分の手を後手にきつくひもでしばってもらい、そこからえいっと手を抜いてみせるというものや、箱の中からハトやボールを出したりするだけの、文字通り奇術、手品としか言いようの無い芸です。
そう、ゼンジー北京さんみたいな芸。

それとか正月になると太神楽があったな。
西洋風に言うとジャグリングね。
唐傘と鞠の芸。
地味に感心していた。

漫才は…売れてない芸人ってやっぱり受けない。本当に笑いが出ない。
芸だけ見れば別にそんなに悪いものではないのに、である。
アタシが見ていたその漫才師さんは染千代、染団子という女性2人組の三味線漫才。お名前の通りで染千代=美人、ツッコミ、染団子=不美人、ボケという役回り。もう40年くらい前なので、亭号も忘れてしまって、探そうとしても見つからないんだなこれが。

当時の芸人でおぼえていたのはトロンボーン漫談のボン・サイトさんくらい。このときはボーン時田と言っていた気がするが、この辺りの記憶は薄いね。ただこの時彼のやった芸は覚えていて、両手を離して口の上にトロンボーンを乗せたまま曲を吹きながら、空いた両手で楽器の脇についた糸?をスルスル引くと万国旗が揚がるというもの。

この人が会場で一番受けてましたっけ。

その後ン十年が過ぎてから、寄席で見る事ができたのは、このボンサイトさんだけでした。

演芸って厳しいやね。

当時のアタシは世の中テレビやラジオに出るような芸人しかいないと思ってたもんな。
地味に地方で余興みたいな営業している芸人がいるってのを初めて知った小学校中学年のことだった。

2007/08/08 14:22 | Comments(0) | TrackBack() | 想いゴト
八五郎出世~立川志の輔の解釈

八五郎出世というのは、またの題名を「妾馬」とも言います。

裏長屋に住んでいた、八五郎という男。
腕はいい大工だが性格はガサツ。
ところが、赤井御門守様の身の回りの世話をするために
屋敷に上がっていた妹のおつるが殿様の目にとまり妾となった。
そしてやがて懐妊して男子(お世取り)が生まれた。
おつるは出世しておつるの方となった。
このおつるが、兄である八五郎に会いたいとお殿様に頼んだので、
八五郎が屋敷に招かれたのだが、
ガザツな八五郎は丁寧言葉を使わないといけないと言われて出かけた。
気を使ってやたら「お」と「奉る」を使ってしゃべていたが、
そのうち殿様に無礼講だと言われると、
今度は一変してあぐらをかいて、殿様を相手に友達のような調子でしゃべり出した八五郎。周囲はハラハラするが、殿様は面白がる。
 やがて、妹のおつると対面しておふくろさんの話しをする。
この時二人はほろり涙を流しあう。
その様子を見ていた赤井御門の守、
いたく八五郎の話が気に入り士分に取り立てる。


こんな噺。
だから「八五郎出世」
妾馬と言われるのは、侍になった後、
殿様から使者を申しつかって馬に乗って出かけるが、
馬術なんか知らない八五郎、こわごわ馬に乗ったが、
なんの拍子か、馬がおどろいて走り出した。
八五郎が必死で馬につかまっていると、
向こうから屋敷の者が来て「いずれへ おいでなさるか?」
八五郎、「前にまわって馬に聞いてくれ」
どちらかというと、兄が士分に取り立てられるところで終わる事が多い噺ですね。

妹が妾になって兄が出世するってんだから、
江戸時代の事だけど、今だと「どうなんだろうね」って事になる。
おつる(妹)は、元々殿様の身の回りの世話をしていて殿様の「手が付いた」ってわけでね。家族としてはトンでもねえ…とはならないんだね。
この噺、庶民と侍との身分の違いを殿様と八五郎の会話で笑わせたり、
おつると八五郎の会話では、折角孫が生まれたのに会う事ができない2人の母親の言葉を出してじーんとさせたり、いろいろ工夫のある噺です。

この題名にどうして志の輔さんの名前を出したかと言うと、
今回、旅行で乗ったANAの機内サービスで、
志の輔師匠が「新八五郎出世」と題して高座に掛けていたのを聞いたのね。

ここで志の輔さん、
なんと八五郎を侍にしなかった。出世の意欲がない男と解釈する。したがって八五郎は「出世」しない。後半の「馬」のエピソードもない。これって勇気の居る改題ですよね。
さすが談志家元のお弟子さん。
つまり、終盤で殿様が八五郎を気に入り、
自ら士分に取り立てようと何回もいうのを、八五郎が頑として断る。
しまいに、おつるが「兄はガサツですが一本芯の通った男です。言う事を聞いてあげてください」と頼むと、殿様あっさり「ではさきほどの話は無しじゃ」と撤回する。
すると八五郎が、どうしてそう簡単に話を引っ込めるんだ。
それが面白くないと文句を言うと、お前の妹はおつるだから
「これが本当の『つるの一声』じゃ」とサゲる。

なるほど。

ガサツだが、愛すべき親孝行の兄を中心にした人情噺にしたわけです。

個人的には、2年半も家賃不払いの八五郎を長屋から追い出すこともせずに、羽織袴まで用意して気持ちよく屋敷に送り出す大家は人格者だなあと感心したしだいです。

2007/08/07 23:17 | Comments(0) | TrackBack() | 落語
毎度~皆様おなじみの~♪(宮川左近ショー)
「毎度皆様おなじみの…」って言うのは、浪曲(浪花節)のイントロなんだけど(イントロってのもどうだろ…「歌いだし」だよね)
ただ、アタシはこの歌いだし、浪曲ではあまり聞いた事はない。
このフレースで始まる演芸で覚えているのは、
「宮川左近ショー」「玉川カルテット」
この二組の浪曲ショーですな。
ボ~イズ部門と言うと違和感がある。
やっぱり浪曲ショーと言うのが自然。
浪曲師と三味線とギターの取り合わせ。
物凄い和洋折衷なんだけど、これが納豆パスタみたいに合う合う(笑)
いや、和風ハンバーグがいいか。

聴いていたのはもちろん子どもの頃ですよ。
アノ頃は笑ってナンボですもん。

まあ、玉川カルテットは別の機会に書くとして…
今は宮川左近ショーを思い出しながら書いてみましょ。

そんなわけで「宮川左近ショー」です。

左近師匠が死んだ後、解散してから15年になるんですって。
宮川左近(浪曲)、暁輝夫(三味線)、松島明夫(ギター)

調べました。

宮川左近師匠は昭和13年、三代目左近に入門して左近丸となり、昭和25年四代目を襲名。
三味線の暁照夫は12歳で東洋軒雷右衛門に入門、昭和23年に雷坊として初舞台を踏み、昭和29年に暁照夫と改名。
松島一夫は昭和20年に二代目京山小円に入門して小さん、昭22年に松原一夫と改名。
昭和34年、最初四人で宮川左近ショーを結成、ほどなく一名抜け三人のスタイルを確立した。「毎度 皆様 お馴染みの」ではじまるテーマソングは人々に口ずさまれ、浪曲台本などのストーリーに軽妙なやりとりを交えた浪曲ショーで独自の境地をひらいた。
昭和47年には上方漫才大賞を受賞した。
三味線の暁照夫は弟子・光夫とコンビを組み、上方演芸界を代表する音曲漫才師として活躍中。


プロフィールとしてはこんなところ。
当初4人で…というのは、アコーディオンの高島和夫という人がいたからなんだそうです。
後に、グループが忙しくなって体力がついていけなくなったのと、楽器(アコーデイオン)の腕前もそれほそ上手ではなかったらしい。

で、結局3人で活動。上方を代表するお笑いグループになったわけです。
今回初めて知ったのは、暁さんが元々は浪曲師で曲師じゃなかったって事と、松島さんも浪曲出身だったって事かなあ。

芸風は、左近師匠が一生懸命浪曲をやろうとするのに、松島さんがギターを弾きながら割り込んで邪魔したり、暁さんがイヤイヤ文句?をいいながら三味線を弾く。
「まだかいな。はよやりなはれ、こんな古いもんやって、お客さん嫌がってはるやないか?」
ツッコミを入れながら、ポンポンと進むステージ。
途中で入る暁さんの三味線の早弾き。
このときのフレーズ「ああ、なんでこんなに上手いんやろ」は定番のギャグになった。

そんな宮川左近シヨーのネタなんだけど、何しろ、アタシが子どもの頃なんで、音源を持ってない。
テレビで見たのは宮本武蔵だったか、何だったか。
ラジオで最後に聴いたのはNHKの「上方演芸会」で確か「新撰組」をやってたと思いますね。

左近師匠が一節唸るところに「コンコンチキチ、コンチキチ」と合いの手が入って。師匠が「それはナンだ?」と尋ねると「祇園囃子やないか」と言われ、仕方なくそのまま演るが、そのコンチキチ、コンチキチが邪魔でしょうがないと言った、文章にすると全然面白くない(苦笑)。

でも、本当に面白かったんですよ~!と声を大にして叫びたい。

今回、いろいろ調べた中で、宮川左近ショーの笑いは「困りの笑い」だと書いてあった方がいまして、ウンウンとうなずいてしまいました。
「困りの笑い」てのはあの桂枝雀師匠の理論なんだそうで、「困っている様子も笑いのネタになる」というもの。
さすが「笑いは緊張と緩和」など理論的に笑いを追及した枝雀師匠ならではです。
(うっかりそのサイトのページを閉じてしまって、誰のサイトだったかわからなくなったのが残念!上手いこと書いてあったんですよね。)

そう言えば左近師匠のお弟子さんは、あの「大助・花子」の宮川大助さん。
そう言えば、昔は大助さんも舞台で一曲(確か「花と龍」)歌ってたのをラジオで聴いたけど…あまり上手じゃなかったなあ。

おっと、丁度時間となりました~♪

2007/07/28 08:50 | Comments(3) | TrackBack() | 音曲

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